第22話:最後の扉、救済の呪い
これが、最後だった。
手元にある招待状の縁をなぞる。これは父がもたらした、都会への最後にして唯一の切符だ。期限まであとわずか。これを逃せば、私の人生を賭けた「理」の完成も、この地方都市の閉塞感を打ち破る未来も、すべて灰になる。
時間がない。もう、一分一秒の猶予もなかった。
視界の端で、ナノが震えているのが見える。あの森から帰ってきてから、彼はさらに小さくなった。都会という巨大な濁流を前に、彼の精神はすり減り、今にも崩れ去りそうだった。
本当は、来てほしい。
私の理屈を理解し、私の地図を広げ、私の隣で、誰よりも繊細な視線で世界を切り取ってほしかった。喉元まで出かかっている言葉がある。「一緒に来て。あなたが必要なの」と、強引にでも連れ去りたい。彼がいれば、どれほど孤独な都会でも、たとえ父を敵に回しても、私は「二人」で歩いていける。そう信じたかった。
けれど、彼を一度見れば、その願いは沈黙に飲み込まれる。
「……ナノ。明日、私、行くわ」
言葉にすると、空気が重く澱んだ。ナノは顔を上げない。ただ、暗い影を落として俯いている。
彼の沈黙が、痛い。彼がどれほど恐れているか、痛いほどわかる。今は私の隣にいることが、彼にとっては世界で最も過酷な場所なのだということも。もし強引に連れ出せば、彼は都会の喧騒の中で窒息し、壊れてしまう。
(言えない。一緒にいて、なんて……私のエゴで、彼を殺すことはできない)
私は、ただ「行ってくる」と告げることしかできなかった。彼に「来てほしい」とすがる権利など、私にはない。私は彼を導く者であって、彼を縛り付ける鎖にはなりたくなかったから。
「……ナノ。あなたは、タンクになりなさい」
口から出たのは、思いがけない言葉だった。
自分の隣にいることすら恐怖する彼に、せめて彼が「一人にならない」ための、救済という名の呪い。
「タンクになれば、あなたは嫌でも他人の前に立つことになる。攻撃を引き受け、守り、誰かから『そこにいてほしい』と願われる……それがタンクという役割よ」
私の理論では、彼はタンクに最も向いている。
あの疑り深く、臆病で、それでも他人のために地図を描こうとする、その真面目すぎるほどの観察眼。敵の動向を見極め、味方の隙を埋め、誰かに必要とされることでしか自分を許せない彼の性格は、タンクという盾を完成させるための資質そのものだ。
「大丈夫よ。その目と、あなたの真面目な性格なら、きっとうまくやれる」
そう言って、私は彼の肩に手を置いた。冷たい。けれど、まだ微かに体温はある。
私はこれで、彼を独りにしてしまう。私が去れば、彼は心底から一人になるだろう。その孤独に耐えられず、彼はきっと、誰かを守るための盾を自ら探すはずだ。
それは、私という「理」から解き放たれた彼が、自分自身の意思で誰かと繋がるための、最初で最後の贈り物。
「さようなら、ナノ」
明日、私は扉を開けて都会へ行く。
ナノ。あなたがいつか、私の知らない場所で、誰かの命を支える盾として笑っていることを、私はどこかで願っているのかもしれない。