第76話:雲の上の選択と、きらめく理不尽
「もーなんなんすかあのデカい熊!岩投げてくるし追いかけてくるし!」
天動機の元へ転がり込んだあたしたちは、全員が泥だらけだった。文句を喚き散らしているデルタだけは、相変わらず無駄に元気そうだけれど、流石に疲労の色は隠せない。
「あの階層の主といったところなんでしょうね。なんとか逃げ切りましたが……」
セラが溜息混じりに、泥に汚れたローブの裾をバタバタとはたいている。本当に、間一髪の泥仕合だった。
「今回もギリギリだから即移動になるな」
ジークがすでに天動機の操作盤をいじりながら呟く。計器を見れば、16:00の起動時間まであと20分も残されていない。あたしたちは慌てて操作盤の横に焚き火を設置し、濡れそぼった衣服を乾かし始めた。煙と蒸気が混ざり合う中、凍える身体に少しずつ熱が戻っていく。
……時間だ。
ガタガタと天動機が重苦しい音を立て、空間が歪む。激しい振動のあと、ふっと視界が開けた。
「え!寒いんすけど!!」
真っ先にデルタが悲鳴を上げた。あたしも思わず腕を抱えて身震いする。
天動機が着地したのは、遥か上空に浮かぶ、頼りないほど小さな浮島の上だった。足元を見下ろせば、見渡す限りの雲海。遥か遠くにあるはずの地表なんて、これっぽっちも見えやしない。
「空中庭園か……」
ジークが珍しく、うなだれるように小さく息を吐いた。
「確か、空中庭園のギミックは……」
セラが、以前ジークから叩き込まれた知識を必死に思い出そうと記憶を辿る。その言葉を引き継ぐように、ジークが重い口を開いた。
「ドラゴン討伐だ」
「このくっそ寒い中で!?」
デルタが再び絶叫する。
これからあたしたちは、この広い空の上で、浮島をいくつも乗り継ぎながらドラゴンを探し出して倒さなければならない。雷雲の下を泥まみれで走り回ったと思ったら、今度は雲の上で決死の空域探索。自然と大きなため息がこぼれた。
「まずは夜を明かしてからだ。暗闇の中を歩き回って落ちれば、ひとたまりもないぞ」
ジークの大人の……じゃなくて、的確な指示を聞き、セラがすかさず杖を振るった。天動機の周囲をぐるりと囲むように、温かな魔術の火が燃え上がる。
「まずは暖をとりましょうか。ぬれた身体では夜もあかせません」
セラはそう言いながら、トキのお気に入りの帽子を優しく火にかざして乾かし始めた。あたしも冷え切った指先を温めるため、手元の護符を何枚かパチパチと燃やし、携帯用のカフェオレを淹れる。甘くて温かい液体が、じんわりと五臓六腑に染み渡っていくようだった。
気がつけば、空中庭園はそろそろ夕刻の装いを見せ始めていた。
雲の上に浮かぶ島々には、厳しい環境に耐えるいくつもの高山植物が可憐な花を咲かせている。沈みゆく夕日に照らされたその光景は、悔しいほどに幻想而で、息をのむほどに美しかった。
「綺麗なところね……」
気付けば、ぽつりと本音が言葉になって漏れていた。
「ここのドラゴンも、見るだけなら綺麗だぞ。体表がクリスタルで構成されているからな」
ジークが焚き火の薪をいじりながら、淡々と教えてくれる。
「それ、砕いて売ったらめちゃくちゃ儲かるんじゃないっすか!?」
案の定、デルタが目を輝かせて食いついた。
「残念ながら、重量制限に引っかかって天動機が動かなくなる。つまり、ここからは持ち出せないということだ」
「ちぇー、一攫千金の夢がないダンジョンっすねー」
頬を膨らませるデルタに、ジークは静かに首を振る。
「ここは報酬目当てのダンジョンとは違う。もちろん最上階でのドロップ報告もあるが、持ち帰れるのはほんの僅かだ。意思決定の連続と、常に何かを捨てなければいけない理不尽なダンジョン。それがここだ。……人生に目的が必要なように、ここにも目的が必要ということだな」
「人生の目的っすかー……。速さを追求したいっすねー」
「その速さが最速の証『踏破速度』なら、犠牲にするものも変わる。そういうことだ」
ジークの重みのある言葉に、デルタは珍しく眉間に皺を寄せて考え込み、静かになった。
あたしはどうだろう。
このギルドの思い出を永遠とするため、あたしにはここの踏破が必要だ。……けれど、本当にそれだけだろうか?
あたしが本来、心の底から求めていたものは、もっと純粋な「面白さ」だったはずだ。この過酷で理不尽な試練を超えた先に、あたしが求めるきらめくような面白さは、果たして待っているのだろうか。
夕日が雲の切れ間へとゆっくり沈み、世界が夜の帳に包まれていく。
あたしはその残光を見つめながら、パチパチと爆ぜる焚き火の音を遠くに聞き、答えのない思考の海へと静かに沈んでいった。