第65話:パンダの盾と、夜のワイン
 夜の帷(とばり)が下りた首都の街。  部屋のランプが投げかける淡い光を頼りに、自分は机の上でペンを走らせていた。かつてはいくつものダンジョンを描いていたが、今や自分のペンが描き出せるのは、この首都の無機質な夜景と、帳簿を埋める無数の数字だけだった。  ヤガミが手配してくれた、市場のすぐ近くにある宿の5階。  窓の下を見下ろすと、まばらな人影がポツポツと夜の道を踏みしめて歩いていくのが見える。  市場での金策と数字の管理に文字通り入り浸るようになって、早いものでもう3ヶ月が経っていた。  ギルド『エターナルカルテット』は、ヤガミの引いた青写真通りに歪みのない急成長を遂げている。近々、事業拡大に伴ってさらに人員を増やし、手狭になったギルドホールから転居する計画らしい。実務を完全に掌握しているヤガミ経由で淡々と聞かされる組織の動向に、今の自分はただ「わかった」と頷くことしかできなかった。  コンコン、と静かに扉が鳴らされた。ヤガミだ。  「どうぞ」  入り口に向かって声をかける。  「相変わらず不用心ですね、マスター。せめて内鍵くらいは掛けてください」  いつも通りの小言を口にしながら、ヤガミが片手に高級そうなボトルワインを携えて入ってきた。  「どうにも、鍵をかけるっていう癖がつかなくてな。前の街ではこんなことしなかったし」  「いくらこの特区の治安維持コストが高く、犯罪率が低いとはいえ、リスクはゼロではありません。不確実性を排除する『オペレーショナル・リスク管理』の観点から言えば、これは初歩中の初歩ですよ、マスター」  わかったわかった、と自分は手をひらひらとさせて彼の言葉をあしらう。  「さてマスター、本題です。『ミリオンダラー』という我がギルドのブランド・エクイティ(無形資産価値)は、市場において爆発的な成長を続けています。巷ではあなたの名前そのものが『ミリオン』という固有ブランドとして認知され始めている。この組織は、名実ともに莫大な富を生み出すプラットフォームになりつつあるのです。……ところで、行政から届いた公文書には目を通されましたか?」  「あぁ。これだろ」  自分は上着の懐から、上質な紙で折られた手紙を取り出した。  そこには『都民参加部会・委員会参加のご依頼』という、いかにも堅苦しい肩書きが踊っている。  「委員会……つまり行政が主導する、都市運営の諮問機関への参加要請です。ギルドマスターであるあなたには、当事者としてこれに出席していただく必要があります。任期は2年」  ヤガミは手際よくワインのコルクを抜き、用意されていた2つのグラスに琥珀色の液体を注ぎながら言った。  「外部から見れば、新興ギルドの長としては異例の大抜擢、名誉ある椅子に見えるでしょう。ですが、行政側のステークホルダー(利害関係者)としての思惑は完全に透けて見えています。少子高齢化が進み機能不全に陥っている委員会の『存続』、現場で動かせる実働部隊の『補填』、そして何より『ミリオンダラー』という今旬な看板の『政治的利用(レピュテーション・マネジメント)』。世間知らずの若造ギルドマスターを軽い神輿として担ぎ上げ、裏からコントロールするのは容易い――行政のトップ層はそう踏んでいるのでしょうね」  自分は手紙の文字に、もう一度冷めた目を落とした。  「……だが、断れないんだろう?」  「ええ、断れません。我がギルドの長期的な持続可能性(サステナビリティ)を高めるためにも、行政とのパブリック・リレーションズ(官民アライアンス)は不可欠です。国や都からの『社会的証明』は、有象無象の中小競合ギルドに対する圧倒的な参入障壁となります。この絶好の機会(オポチュニティ)を掴めたのは、首都広しといえど我がギルドだけですから」  ヤガミはグラスを1つ、自分の前に差し出した。  「しかし、マスター。ここで私は、1人の『CFO(最高財務責任者)』としてではなく、あなたの副官として、あなたの真の動機(インセンティブ)……すなわち、本音を伺わなければなりません」  「本音?」  「そうです」  ヤガミは、自分が机の上に置いていたスケッチブックの余白に目を落とした。そこには、かつて四人で囲んだ焚き火の、拙い線画が残されていた。  「――本当は、今すぐにでもこんな書類仕事を放り出して、冒険に戻りたいのでしょう」  「……まあ、そうだな」  自分は差し出されたワインを受け取り、喉を鳴らして小さく頷いた。否定する気にもなれなかった。  「……残念ながら、それはもう叶いません。私が今こうしてあなたの本音を聞き出したのも、組織マネジメントにおける『人的資源のメンタルケア』、つまりただのガス抜きに過ぎませんから」  「わかってるよ……」  窓の外、眼下に広がる首都の夜景を見つめる。  冷たい風が頬を撫でる。あの、仲間たちと不格好な焚き火を囲み、明日を語り合った泥臭くも温かい夜は、もう二度と戻ってこない。  「しかし、マスター。もし万が一……あなたが本当にこの地位も名誉も、全てを放棄して『エグジット(事業撤退)』するおつもりがあるのなら、その時は私ではなく、ジークさんを頼ってください」  ヤガミが自分と同じように窓の外へ視線を落としながら、ぽつりと言った。それは、この冷徹な男の口から出るものとしては、あまりにも意外な言葉だった。  「……自分が、このギルドから逃げ出してもいいとでも言うのか?」  「まさか……。私は組織の利益を最大化する人間です。しかし、経営において常に『事業継続計画(BCP)』とリスクヘッジは必要です。人間という生き物は、私たちが扱う明快な数字とは違い、感情という不確実性(ボラティリティ)で動きますからね。経営者が機能不全に陥った際の『ガバナンス(統治機構)の分散化』を想定しておくのは、リスクマネジメントの基本です」  「……」  自分は静かにワインを口に含んだ。  この、数字を追いかけるだけの不毛に思えてしまう毎日に、自分がどれほど嫌気を指しているか。数字の向こう側でしかギルドと関われない日々に、どれほど心が磨り減っているか。ヤガミには、そのすべてが見透かされているのだと痛感した。  ミリオンダラー。  今の自分は、ギルドを大きくするための、ただの「客寄せパンダ」のような象徴だ。  背中に背負ったこの分厚く黒い盾。もはや実戦で敵の攻撃を防ぐことはなくとも、行政や他ギルドの目を引くための「記号」として、自分はこれを背負い続けなければならない。ヤガミの指示は常に冷徹で、そしてあまりにも的確だった。だからこそ、行政すらも無視できない巨大な存在に、私たちは成り上がった。  だが――。  目を閉じれば、脳裏に一瞬でフラッシュバックするのは、いつもあの息の詰まるような、けれど何よりも眩しかった、冒険の日々だった。