第64話:バブルの天井と、命の対価
 市場は、恐ろしいほどの速度で加速を続けていた。 すべてはヤガミの読み通りだった。首都の労働市場(冒険者人口)の急激な拡大に伴い、市場には行き場を失った莫大な金が溢れかえっていた。  ギルド『エターナルカルテット』の快進撃は止まらない。新調された装備を身にまとった新人たちは、ジークの容赦のない実戦指導によって瞬く間に戦力を向上させ、次々とダンジョンを攻略。ギルド倉庫には、彼らが持ち帰った、値付けと棚卸しを待つ大量の武具がうず高く積み上がっていた。 自分とヤガミは、その膨大な在庫と資産の数字を追い続ける日々を過ごしていた。  そして、その時は来た。  「……ここまでですマスター。ここからは、計画通りの『エグジット(利益確定)』――つまり撤退線になりますよ」  マーケットに掲げられた、素材や武具の取引価格を示す掲示板を眺めながら、ヤガミが静かに告げた。 掲示板の数字は、今この瞬間も右肩上がりの急上昇を続けている。素人目に見れば、まだまだ稼げる絶頂期にしか見えなかった。  「なぜ、ここで撤退を? 数字はまだ勢いよく伸びているじゃないか」 思わず問い返す自分に、ヤガミは純白の手袋をはめ直しながら、眼鏡の奥の細い目をさらに細めた。  「いいですかマスター。現在の市場は、大手ギルドによる『仕込み』と、それに追随した大衆のパニックバイ(狼狽買い)が引き起こした、純粋な投機的バブル(アセットバブル)です。大手が市場の流動性を強引にコントロールし、需給バランスを意図的に歪ませて価格を吊り上げている。いわば、意図的な市場操作(マーケット・マニピュレーション)ですよ」  ヤガミは懐から万年筆を取り出し、掲示板のグラフの推移を指し示す。  「彼らクジラ(大口投資家)の目的は、地方からの流入者が持ち込む資金を底引き網でさらうことです。しかし、新規参入者の購買力が限界に達した瞬間、大手は一斉に保有資産を市場に吐き出し、利益を確定(ショート)させる。その瞬間に流動性は枯渇し、価格は垂直落下します。膨らみすぎたシャボン玉は、最も美しく輝いた瞬間に破裂するものなのです。これ以上ポジションを維持することは、期待収益率に対してダウンサイドリスクが非対称に大きすぎる。サンクコスト(埋没費用)に囚われず、損益分岐点(BEP)を大きく超えた今、完全に売り抜けるのが鉄則です」  (ショート……流動性の枯渇……?) やはり専門用語の半分も理解できなかったが、「今が破滅の一歩手前である」という彼の冷徹な警告だけは理解できた。  「わかった、ヤガミの言う通りにしよう」 「賢明なご判断です、マスター。では速やかに在庫の全量売却(クリアランス)を――」  言いかけたヤガミの背後、市場の最奥にある高級薬草商の店先に、自分はある「なつかしいもの」を見つけた。 ガラス瓶の中で、怪しく、けれどどこか神聖な輝きを放つ琥珀色の液体。  「ヤガミ、すまないが、売却の前にあれを買い付けてほしいんだ。……メンバー全員分だ」  自分の指差した先を見て、ヤガミが怪訝そうに眼鏡を曇らせた。 「……最高級エリクシルポーションですか。マスター、現在のギルドメンバーの力量と攻略中のダンジョン難易度から逆算すれば、それは完全にオーバースペック(過剰投資)です。資産の流動性を低下させるだけで、費用対効果(ROI)が見合いません。……本当に必要ですか?」  「あぁ。あれで自分は一度、文字通り『ミリ単位』で命を救われたんだ」  あの日。あのサーカスで、死にかけていた自分にメーヴェが処方してくれた、あの最高級POT。 それが今、市場の奥に並んでいる。確かに目が飛び出るほど高価だが、ヤガミの戦略によって得た今の潤沢なギルド資金なら、十分に揃えられる金額だった。  「お守り代わりに、全員に持たせたいんだ。どんなにジークさんの指導でみんなの力量が上がっていても、ダンジョンに『絶対』はないだろう?」  自分の真っ直ぐな視線を受け、ヤガミは小さくため息をつき、すぐにいつもの冷徹なビジネスマンの顔に戻った。 「……戦術的なリスクヘッジ(保険効果)として減価償却する、ということですね。承知いたしました。マスターがそこまで言うのであれば、買い付けましょう。全員分を」  「ありがとう、ヤガミ」  「いえいえ、これも組織の人的資産(ヒューマンリソース)を守るためですから。――店主、そこに並んでいる最高級POTを12名分、全て売っていただきたい。支払いは現物キャッシュだ。……そう、私達が今噂の『エターナルカルテット』ですよ」  店主の前に歩み寄り、淀みのない手際で価格交渉を始めるヤガミ。  手に入った12本の琥珀色の小瓶を見つめながら、自分は静かに胸の内で呟いていた。 (これで、ほんの少しだけ借りを返せるかな……)  二度と背中をあわせることのなくなった彼女の姿を、市場の喧騒の中で静かに思い出し、そして思い出のスケッチブックを開いた。