第86話:決別の涙と空のPOT
手記の余白に描かれた、二つの空のマグカップと、使い捨てられた高級POTの空き瓶。
かつて『サーカス跡地』で交わした借用の証書の切れ端が、地図の終着点を示すように静かに置かれている。そこから先へ伸びる道は、もう交わらない二つの別々の矢印として記されていた。
手記(自分):
消毒液の匂いが鼻を突く治療院の一室。
ベッドに身を預けるメーヴェは、ひどく青ざめた顔で、それでもいつものように気丈に振る舞おうとしていた。
「potのお返しありがと。あれのお陰で生き延びれたわ」
彼女の視線の先には、自分が置いていった数本の空瓶がある。
「わざわざ全員分用意するなんてと思ったけど…助かったわ。これでもう貸し借りナシかしら?」
メーヴェは力なく笑う。
その瞳には、かつてのような鋭い計算も、悪戯っぽい光もない。まるで、これから何を話すか、そして自分が何を告げに来たのかを、すべて知っているかのような、諦観に満ちた笑みだった。
「そうよね。治療費も出してもらってるわけだし。……ありがとう」
自分の口は、まるで凍りついたかのように何も話せなかった。
喉の奥に重い石が詰まったようで、言葉を紡ごうとするたびに痛みが走る。大盾でどんな一撃を受け止めるよりも、彼女のその弱々しい声を聞くことのほうが、今の自分には耐えがたい苦痛だった。
「ごめんね……何も、できなくて」
メーヴェは涙混じりに言葉をこぼした。
あの日、どんな死地でも前を向いて笑っていた彼女が、顔を歪めて泣いている。
「そんなことはない。いつも、ありがとう」
自分はようやく、掠れた声を絞り出した。
「お陰で自分はここまで来れた。皆を引っ張ってくれてありがとう。本当に無事でよかった」
それは紛れもない本心だった。彼女がいなければ、自分はあの大盾の重さに潰され、とっくにどこかの迷宮で泥に還っていたはずだ。
だが、自分の言葉は彼女の心を癒すどころか、かえって深く抉ってしまったようだった。
「何も良くないわよ……。あたしは、あなたの助けになりたかった」
彼女は首を横に振る。
「でも、あたしには何もできなかった。運良く生き残っただけ。お守りがわりに持たせてくれたpotのお陰で……」
ぼろぼろと、メーヴェの瞳から大粒のなみだがこぼれる。
その涙を拭うことが、今の自分にはできない。
伸ばしかけた手は宙を彷徨い、力なく下ろされた。自分たちの間には、今も見えない壁がある。どれだけ背中を預け合っても、決して超えてはいけない、決定的な「溝」が出来上がってしまっていた。
「ありがとう、ギルドマスター……あなたのお陰よ」
唇をわなわなと振るわせ、メーヴェは言葉を紡ぐ。
彼女は知らされてしまったのだろう。今のエターナルカルテットというギルドの立場を。そして、自分がこれから背負う過酷な運命を。
彼女は彼女なりに、ずっと責任を背負っていたのだ。それが今、限界を迎えて涙となってこぼれ落ちている。
「あなたの重しには… なりたくないわ」
嗚咽が混じる。彼女の細い肩が、小刻みに震えていた。
「だから……あなたは……」
彼女の口から出る言葉が、自分と彼女の旅の終わりを告げる決定的な宣告だと分かっていた。
「いいのよ、行っても。もう、縛りつけたくない。もう、酷いことを言われなくていい……。ごめんなさい……ッ」
メーヴェはベッドに顔を伏せ、ついに泣き崩れた。
それを眺めているしかできなかった。「何も悪くない」と、どれだけ言葉を尽くしても、きっと今の彼女には届かない。彼女は、これからも自分自身を責め続けてしまうだろう。
ただ、彼女を救う言葉は、今の自分の中には一つもなかった。
おそらく、彼女たちは挑み続けるのだ。
あの塔を。誰も信じなかった再現性のない階層を攻略するまで。
それを皆、覚悟している。自分たちがどれだけ無謀な挑戦をしているのかを理解した上で、それでも進むのだろう。
ただ、自分はそこにいない。
本当はもう、彼女たちを行かせたくもないのだ。これ以上、傷つく姿を見たくない。
それでも、決定的な溝があった。彼らの歩幅と、自分の歩幅は、もう二度と交わることはない。
泣き続けるメーヴェ。
その震える肩に、やさしく手をかける。
何も言えない。気の利いた慰めも、未来への希望も語れない。ただ、少しでもこの手のひらから、自分の気持ちが届いて欲しいと祈るしかなかった。
自分は、何も後悔はしていない。
盾を構え、共に死線を潜り抜け、カフェオレの香りを分かち合った日々のすべてが、自分の血肉となっている。
ただ、皆が無事でよかった。彼女が、生きていてくれてよかった。
心の中で、静かに呟く。
君とまた会えてよかった。