第23話:空白の扉
別れは、あまりにもあっけなかった。
ダラーは、まるで明日もまた騎士団墓地へ向かうかのように、淡々と旅支度を整えていた。彼女の背中は、いつものように凛としていて、自分の知っている「強いダラー」そのものだった。
「この部屋の料金は、今年の終わりまで全部払ってあるわ」
彼女は背を向けたまま、淡々と告げた。
「家具も、道具も……あそこにあるスケッチブックも。全部好きにしていいわ。もう、私には必要ないものだから」
最後に彼女がこちらを向いた時、私は息を呑んだ。
いつも冷徹なはずの彼女の瞳が、今は信じられないほど潤んでいた。言葉を紡ごうと震える口元。彼女が何を言おうとしているのか、痛いほど伝わってきた。
『一緒に来て』
『一人にしないで』
『嫌だ』
彼女の瞳は、そう叫んでいた。彼女の矜持をすべて剥ぎ取った先にあったのは、自分と同じ、孤独を恐れる一人の人間としての弱さだった。
(今だ。今なら言える。今なら――)
「一緒に行く」と。
「どこへだって着いていく」と。
そう言えば、彼女のその瞳からこぼれそうな涙を止めることができるかもしれない。彼女の震える口元を、安心で満たせるかもしれない。
だが、私の喉は凍りついたように動かない。
あの森で感じた「人」という群れの恐怖、自分が彼女の計画を壊すという自責、そして何より、彼女の隣に立つのに相応しくないという醜い劣等感が、私をその場に縫い付けた。
喉がひどく乾いていた。
何か言わなければと思うほど、舌が上顎に張りついて離れない。
彼女のブーツが床を鳴らす音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……じゃあね、ナノ」
彼女はもう一度だけ、短くそう言った。
強がったような、それでいてすがるような、最後の一言。
彼女は荷物を担ぎ上げると、振り返ることなく扉へと歩いていった。
バタン、と静かに扉が閉まる。
残されたのは、彼女が去った後の冷たい空気と、淹れかけのコーヒーの残り香だけ。
自分はその場に立ち尽くすことしかできない。彼女を見送ることさえ満足にできず、彼女の背中を追うことさえできず、ただ自分の醜さを抱えて蹲るだけ。
自分は、あまりにも醜い。
彼女が去った部屋で、自分の影だけを見つめていた。その影は、彼女がいない世界で、何よりも空虚で、何よりも汚れていた。