第79話:形而上の黄昏と、生ける迷宮
鏡張りのあの悪夢のような階層をようやく抜けて、天動機が指し示したのは「26階層」だった。
最上階を含めて、残るはあと3階層。順調にいけば、明後日にはこの長い旅の終着点である最上階に到達するはずだった。
だけど、この階層に足を踏み入れてから、リーダーであるジークの様子が明らかに変化していた。
いつもなら誰よりも早く状況を分析し、指示を飛ばす彼が、酷く険しい顔で考え込んでいる。何かが強烈に引っ掛かっているようだった。
「こんな階層はしらん……」
彼がボソリと呟いたその微かな声を、あたしは聞き漏らさなかった。この塔のすべてを知悉しているかのようなジークが「知らない」と言った。その一言だけで、あたしの背中に冷たいものが走る。
周囲に広がっていたのは、夕焼けのような、あるいは古い写真のような、奇妙な黄色や茶色に照らされた空間だった。
頭上には重々しい暗雲が立ち込めているが、なぜか世界は不自然に明るい。そして、遠近感を完全に無視した歪な建物が、デタラメな規則性でいくつも並んでいる。だが、生き物の気配は微塵もない。
どこからか、カラカラ……カラカラ……と、乾いた車輪が回り続ける音だけが、不気味に響いていた。
「なんか、なんもないっすねー」
警戒しながら進むあたしたちの横で、デルタが少し不安を紛らわせるように声を上げる。
確かに、ここには何もない。ただいくつかの不条理な建物と、実用性を一切排した奇妙なオブジェが並ぶばかり。形而上の世界、とでも言うべきか。どこか懐かしいような、それでいて酷く寂しいノスタルジーを感じるこの空間を、あたしたちはあてもなく彷徨うしかなかった。
やがて、ある広場に差し掛かったとき、あたしたちは一斉に足を止めた。
そこには、あまりにも場違いな「バナナ」と「マネキン」がぽつんと置かれていた。
「……帰り道は大丈夫?」
あたしは耐えかねて、隣のジークに尋ねる。
「あぁ、ルートは問題ない。だが……何をすればいいのかがわからない」
ジークが、珍しく力なく項垂れた。戦うべき敵も、解除すべき罠も見当たらないのだ。
「トキ、何か気になるものはあった?」
セラが、しっかりと手を繋いだままのトキに優しく尋ねる。あのドッペルゲンガーの擬態すら見破った彼女の色彩感覚なら、この空間に隠された「別の何か」が見えているかもしれないと思った。だけど、トキは静かに首を横に振るだけだった。
「生き物の気配がないっす……あるのはこんな意味のわからないオブジェばっか」
デルタが銃口で足元のバナナを指す。明らかに奇妙で怪しいけれど、それに触れることは躊躇われた。下手に動かせば、どんな致命的なトラップが起動するか分かったもんじゃない。
地面を見ると、あたしたちの影が異様なほど長く伸びている。太陽が動いている気配はなく、まるで世界そのものの時間が止まっているかのようだった。
「……この塔はまるで哲学ですね。物体と思想が同時に存在しています」
セラが、静かにあたりを見回しながら呟いた。
セラとトキ。この夫妻は、その並外れた色彩感覚もそうだが、どこか生き方そのものが芸術的であり俗世離れしている。セラの放つ魔術は、まるでインクのようにダンジョンをカンバスとして塗り替えていくような美しさがある。
人よりも多くのものが「見えてしまう」からこそ、普通の人と言葉がズレる。だから、彼女たちは普段、あまり多くを話さないのかもしれない。
エターナルカルテットの扉を叩いた二人に志望理由を聞いたとき、「他のギルドにない魅力を感じた。異質な絵画のような様に惹かれたから」と語った二人。あたしたちが絵画に見えるなんて変わった二人だと思ったが、今ならなんとなく、その感性が理解できる気がする。
「どういうことだ?」
ジークが怪訝そうに首を捻ると、セラは淡々と言葉を続けた。
「すべての大元は多様な環境。さきの複製や不可能図形的な空間のつながり、そしてこの世界の裏側のような空間……いくつもの人間の脳を繋いだようなダンジョンです。そして、このダンジョンは生きています」
ダンジョンとは何か。それは地上の多くの学者が今も探究し続けている大いなる謎だ。未だ答えは出ていないけれど、空間異常によって別世界が露出した姿だとも言われている。
「それ、この階層のギミックに関係あるんすか?」
デルタが頭を抱える。無理もない、こんな概念的な話をされたところで、どうやってここを突破すればいいのかさっぱり分からない。あたしたちはここで、進むことも退くこともできず、攻略失敗となるかもしれない……そんな焦燥が頭をよぎった。
だけど、セラは少しも諦めていないようだった。
その時、突如としてあたしたちの目の前の空間がぐにゃりと歪み、何もないはずの場所に「天動機」が姿を現した。
「なに!?」
ジークが驚愕の声を上げる。
あたしは反射的に双剣の柄を握って構え、デルタも飛び退きながら銃を取り出した。
だが、その天動機の表示板には、次の階数を示す数字が一切刻まれていなかった。ただ、黒い画面がそこにあるだけだ。
「いきましょうか……」
セラが静かにそう呟くと、トキの手を引いて、迷うことなく真っ先に天動機の中へと乗り込んでいった。
あたしたちは互いに顔を見合わせた。
正解も不正解も分からない。けれど、ここに留まっていても時間は動かない。行くしかないのだ。
あたしたちは覚悟を決め、彼女たちの後を追うように、その未知の天動機へと乗り込んだ。