第84話:看板の盾と見果てぬ景色
眼下の景色を、ぼーっとペンで書き写す。
紙の上に少しずつ描き出されていく街の輪郭を、傍らに立つヤガミがただ静かに眺めていた。
診療所に運び込まれたメンバーたちも、少しずつ意識を取り戻し始めている。
それぞれがあの時何があったのかを語ってくれるが、記憶が混乱しているのか、話に整合性はない。ただ一つ確かなのは、彼らがいずれ再び黒紋塔に挑むだろうということだ。失われた自身の名誉を取り戻すために。
ただ、その時に自分はいない。
ギルドの看板を下ろし、自分がここを去るという決断を、まだヤガミとジーク以外には切り出せないでいた。
ツツジにも、ユーにも。そして、未だ目を覚まさないメーヴェにも。
「今回の統合にあたっての負債処理や、市場との残存契約の整理は問題なく進められます。ジークも私もいますし、ビブリオ・ビブリア側の受け入れ態勢も整っていますから。実務的な面での懸念はありません」
窓の外を眺めながら、ヤガミが計算めいた淡々とした口調で言った。そして、少しだけ声のトーンを落としてこちらを向いた。
「ですが、組織の求心力であったあなたが抜ける影響は、帳簿の上では測れません。……マスターは、その立場を捨ててこれからどうするのですか?」
ヤガミにそう問われた時、自分は何も答えることができなかった。
果たして、自分はこれまで自分で何かを決めてきたのだろうか。
冒険者を始めたのも、盾を持ち始めたのも、ギルドを立ち上げたのも、マスターになったのも、そして部会の仕事をするようになったのも。思い返せば、全ては誰かの言葉や状況に押し流された結果だった。
この黒い盾は、今やミリオンダラーというギルドの『看板』だ。
だからこそ、自分は今、この盾を持ち続けることに強い違和感を覚えている。自分はまだ、誰かを守り続ける必要があるのだろうか。
だが、盾を捨てた自分は、果たして誰かに必要とされるのだろうか。
いや、誰かに必要とされること自体、もういらないのかもしれない。肩書きも、看板も取り払った後の「自分の価値」とは何なのか。
ミリと呼ばれる自分は、今、生まれて初めて「自分の意思」というものについて深く考えていた。
手元の紙に目を落とす。この絵を描くという行為も、元々は自分で始めたことではない。しかし、今ではすっかり生活の一部になっている。
これまでの道程を振り返って、一つだけ確かなことがあった。
まだ見ぬ景色を見ること。それだけが、唯一自分が自らの意思で選んできたことだったのだ。
「自分は旅に出るよ」
窓枠から顔を上げず、ぼそっと呟いた。
「……旅、ですか」
「……盾は置いていく」
ヤガミは少し思案するように目を伏せた。
「『ミリオンダラーの黒盾』が持つブランド力は、統合後の新たなギルドにとっても無形の資産になり得ます。それを手放すということは……もう戻らないつもりですか?」
何も答えられない自分を見て、ヤガミは小さく息を吐いた。
「わかりました。資産価値という以上に、我々にとって大切な象徴ですからね。いつか戻ると信じて、新たなギルドに飾っておきましょう」
そう言って、ヤガミは優しげな目で笑った。